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随想20. ダジャレ陶器(冬季)オリンピックA

2004.12.5

★659.いいまりを見つけたよ・・伊万里(いまり)焼・佐賀

★658.色の濃いまりを見つけたよ・・古伊万里(こいまり)・佐賀

★657.あっ、川(かは)だ・・あっかはだ・・赤膚(あかはだ)焼・奈良

★656.追いはぎに呼び止められたよ・・萩(はぎ)焼・山口

★655.今日はカラッと晴れたね・・カラッ・・唐津(からつ)焼・佐賀

★654.この茶碗で食ったにー・・くったにー・・九谷(くたに)焼・石川

★653.この谷は色が濃いね・・濃く谷・・古久谷(こくたに)・石川

★652.「うまそー」と言った焼き物は・・そーうま・・相馬(そうま)焼き・福島

★651.鍋が縞模様だね・・なべしま・・鍋島・佐賀

★650.今日、焼いたばかりの焼き物は・・京焼・京都

★649.人生について語るのが好き・・仁清(にんせい)焼・京都 

★648.キーを持ち歩くと楽や・・楽やキー・・楽焼・京都

★647.空を飛ぼう・・砥部(とべ)焼・愛媛

★646.栗好きの忍者がいるよ・・伊賀焼・三重


★645.サイモンとガーファンクルが気に入っていた、中国新石器時代の土器は・・彩文(さいもん)土器

★644.ジャン・コクトー(フランスの故・劇作家)が気に入っていた、紀元前2000年の中国の黒色土器は・・黒陶(こくとう)

★643.父さんは3才だよ・・父さん3才・・唐三彩(とうさんさい)

★642.毛糸を探すのに苦心した中国南宋時代の陶磁器の中心地は・・毛糸苦心・・景徳鎮(けいとくちん)



●焼き物の歴史A(古墳〜現代)

古墳時代〜鎌倉時代の土器・・土師器(はじき)・・

垂仁(すいにん)天皇の時代に、殉死の人々の代わりに埴輪が作られました。その埴輪の制作にあたったのが、出雲の国の土師(はじ)の部民であるとされています。『延喜式』には、土器(はのうつわ)、陶器(すえのうつわ)と記されています。土師部と呼ばれた人たちの仕事は素焼きの土器の制作でした。雄略天皇の時代には、宮廷用の食器制作も行ったようです。色は黒褐色で古墳時代前期・中期を中心に多く作られました。最近では土師器の植木鉢も愛好家の間で人気があるようです。

古墳時代〜鎌倉時代の土器・・須恵器(すえき)の大量生産・・


土師器より100年ほど後に、鎌倉時代の全国各地で使用された土器は須恵器です。土師器より高い温度(1100度〜1200度)で固く焼きしめられています。灰色、灰黒色で固いのでたたくとチンチンと音がするそうです。1200度近い温度で焼くことができたのは、平窯(ひらがま)や穴窯(あながま)に代わって、斜面を利用して登り窯が作られたからです。登り窯は火の勢いがあり、熱効率がよく高温で焼くことができます。ロクロ成形もされ大量生産されました。

しかし土師器は須恵器が台頭しても廃れることなく、釜や甑(こしき)など食物を煮炊きするための道具として鎌倉時代まで使われました。須恵器は食物を盛ったり、貯蔵の目的で土師器と同時に長い間、使われていました。

須恵器は古墳時代の石室から多数出土しています。特に脚つきの高坏(たかつき)は牧野古墳(ぼくやこふん・・奈良県広陵町の円墳)から大量に出土しています。押坂人大兄(おしさかのひこひとのおおおえ)の古墳で舒明天皇の父で、天智・天武の祖父にあたります。

奈良三彩・正倉院三彩(緑・褐・白)・・

わが国で最も古い釉薬のかかった焼き物です。奈良三彩は唐三彩の影響も受けていますが、その作風や成形方法は唐のものと違い、素朴で釉薬も違います。奈良三彩は壺の他に、瓦としても用いられました。唐招提寺や西大寺からも三彩の瓦が出土されています。正倉院の倉庫には68点の正倉院三彩があります。この正倉院三彩が作られた時期は、天平勝宝4年(752年)四月九日の大仏開眼会または、勝宝7年(755年)七月十九日の聖武天皇御生母中宮斎会儀式の時とされています。

奈良〜平安の緑釉・・
平安の末期に緑色の釉薬を使った陶器の制作が途絶えました。

鎌倉時代〜現代までの焼き物・・

鎌倉時代に入って、本格的な釉薬を用いた陶器作りがさかんになりました。六古窯(りくこようは瀬戸・常滑・備前・丹波・信楽・越前です)も発達しました。平安時代まで全国に散らばっていた窯が六カ所に集中して生産されるようになったのです。その渋い伝統と技は現在も受け継がれています。備前の火だすきの模様は最高ですね。陶器を「せともの」と言うのは、愛知県の「瀬戸物」からきています。

桃山時代〜室町時代の焼き物・・


桃山時代は豊臣秀吉が最も活躍した時代ですが、政治・経済・文化の発達と共に陶器の黄金時代を迎えます。作陶の中心地は美濃(岐阜)に移ります。この頃に唐津・志野・織部・楽焼きが発達します。

★茶の湯の流行・・

鎌倉時代に有力な寺院や貴族の間で抹茶がたしなまれていました。室町時代になってから中央の権力者、武士・豪家の間で茶の湯が広まり、村田珠光(むらたじゅこう)によって茶の湯の基礎が築かれました。それまでの茶の湯は、飾り付けが豪華で遊興的な物でしたが、珠光は茶の湯に、禅的で侘びの美意識を取り入れました。禅の意識は珠光が京都の大徳寺の参禅で得たものです。この侘び茶の精神はさに、千利休によって受け継がれ進化しました。

★楽茶碗(茶の湯用の茶碗)の流行・・


楽茶碗の創始者は16Cの長次郎と言われる人で、元々は宮殿や城郭・寺院建築に携わっていた人です。京都で茶の湯を起こしていた千利休と知り合いそのすすめと、指導によって楽茶碗という茶器を開発したそうです。その頃、信楽・備前の民間の窯には「利休好み」と言われる茶器がさかんに注文されたそうです。茶器は17Cに入って本阿弥光悦(こうえつ)によって、さらに進化し、茶碗の形・色・てざわり・重さ・口あたりで茶碗が評価され、さらに茶の色も評価の対照とされました。


★茶の湯が好きな武将・・豊臣秀吉


北野の茶会や、第一次朝鮮出兵の際、肥前(佐賀)の名護屋に本陣を定め、諸国の武将を集め、茶の湯の会を開きました。

江戸時代〜現代までの焼き物・・

京焼き・伊万里・柿右衛門・九谷・鍋島・赤膚焼き・万古焼きetc・・奈良県の赤膚(あかはだ)焼は西台寺(さいだいじ)の大茶盛り(おおちゃもり・・4月と10月に行われる茶会)で5キロもある茶碗として使われるようです。万古焼は三重県の焼き物です。


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