◆◆戦国武将の館U ◆織田信長◆豊臣秀吉◆石田三成 

読書の記録

戦国武将の館U・目次に戻る

トップページに戻る

秀吉・・夢を超えた男 2006.2.24

単行本(上・中・下・・NHK出版) 文庫本(一〜四・・文春文庫) 


著者・・・堺屋太一
1935年、大阪市に生まれる。本名、池口小太郎。東大経済学部卒業と共に、通産省に入省。日本万国博覧会を企画、開催。経済企画庁長官などにも携わった。著書は『団塊の世代』『巨いなる企て』『千日の変革』など多数。時代物や経済に関する物などバラエティーに富んでいる。


本書はタイトルどおり、秀吉の一生について、書かれた本です。NHK大河ドラマの原作にもなった本です。ぶ厚い本を読むのは久しぶりでしたのでかなり時間がかかりました。秀吉ほど変化に富んだ一生を送った人も珍しい思います。ドラマチックで飽きることなく、夢中で読むことができました。
藤吉郎の尾張時代や、堺に出てきたころ、また信長の家来になって柴役から草履とり、足軽へとポンポン出世していく様が手にとるようにわかります。25才の時、足軽から組頭に昇格してお目当てのおねと結婚できてよかったな・・と思いました。おねは貧しい時代から秀吉と一緒だったんだな・・と思いました。永禄8年(1565)、29才の時、「木下藤吉郎」という名前を信長からもらって、嬉しかったのだろうな・・と思いました。この時弟の小一郎も「秀長」という立派な名前をもらったようです。

【天下人となった理由】 

★天性の頭の回転の良さ・・臨機応変に何をすべきかとっさに判断できたと思います。
生きる能力500パーセント身につけているような人だったのでしょう。7才の時父を亡くして貧しい中、長男として育ち、いつも一家の長を意識して何とか立身出世しようと、上昇志向にあったと思います。

●サービス精神旺盛で信長に気に入られる・・かゆいところに手が届く、相手に何をすると喜ばれるか、いつも考えていたと思います。明るく楽天的で、ものおじしない性格も出世の鍵となったと思います。

★命がけの実行力・捨て身の実行力・・・・墨俣の一夜城に見られるように、思いついたらあれこれ迷わず、即行動に移す・・それがほとんど成功や武功につながっていたようです。竹中半兵衛を敵方から自分の策士家として招いたのも秀吉の実行力だと思います。永禄13年(1570)、34才のころ、朝倉勢から追われて金ヶ崎城を撤退するとき「殿払い」役をすすんで引き受けて、まさしく命掛けで武功を得ます。その後も姉川の合戦などで、信長よりほうびをもらって石高をどんどん増やしていきます。

★信長の組織運営とピッタリ合致・・身分にかかわらず、武功があればぐんぐん出世させてもらえる・・頑張って成果を出せば必ずほうびがもらえて出世できる環境が秀吉にはたまらない魅力だったと思います。

★身近なライバルがいた・・明智光秀というライバルがいたことです。光秀は自分より命がけの仕事が少ないのに、頭脳労働でいつも歩が良くてくやしい思いをしていたと思います。しかも信長の家臣になったのは自分よりずっとあとなのにぐんぐん出世します。秀吉はライバルを意識して、闘争心に火がついていたと思います。

★補佐役に恵まれた・・弟の秀長が補佐役として、いつも秀吉を支えていたと思います。石田三成など優秀な側近がいたことも幸運でした。

F運が良かった・・数多くの合戦で命を落とさなかったのは、実力もありますが運が良かった部分もあると思います。また本能寺の変により、棚からぼた餅状態になったり、光秀を討ちとることができたのも、速攻による行動力はもちろんですが、光秀についた勢力が少なかったという幸運もあると思います。
秀吉が天下を取るチャンスを開いてくれたのは、皮肉にも究極のライバル光秀でした。


◆◇◆◇◆◇

秀吉は天下を取り、大坂城・聚楽第・淀城を築き、北野で大茶会を開き、後陽成天皇を聚楽第に招いたり、大仏を造ったり・・華々しい生活を送ります。しかし登り詰めたら下るしかないのが世の常です。弟の秀長や利休の切腹によって豊臣政権に少しづつ翳りが出てきます。秀吉軍の北条氏の拠点の小田原城攻めの際、大型の軍船が大勝利の鍵になりましたが、調子に乗って軍船を増産し、ありあまる軍力の矛先を朝鮮出兵という形に向けてしまったのは失策でした。
また関白を甥の秀次に譲り、自らは太閤になりましたが、秀次の謀反の疑いで一族を処刑したり、豪華な聚楽第の取り壊しなども豊臣政権に陰を落としたと思います。

秀吉の晩年の明るい話題というと、文禄2年(1593)に、亡き長男鶴松のあと、次男の「拾・ひろい」(後の秀頼)が生まれたことでした。秀吉は慶長3年(1598)、8月18日伏見城で62才で亡くなりますが、この年の3月15日に行われた
「醍醐の花見」が、秀吉の最期の華やかなイベントになったと思います。北政所、淀君浅井氏、松の丸殿京極氏ら秀吉の妻妾が豪華に着飾り、元服した秀頼6才も登場し、諸大名や公家衆も加わり会場の三宝院周辺は茶屋が多数並び、飾り付けも華麗だったそうです。


秀吉は病の床で、遺言を書き、秀頼の行く末を案じながら、この世を去ったようです。全て手に入れてしまった
秀吉の最期の夢は、「秀頼の未来」だったと思います。秀吉亡き後、半年後に秀頼を支えるバックボーンの前田利家が亡くなり、豊臣政権が坂を転げる勢いで破滅していきます。そして慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で壊滅的になります。本書は秀吉が亡くなったところで終わっています・・・
サルが去る(さる)。

秀吉の辞世の句・・・

「つゆとをち、つゆときへにしわがみかな、難波のこともゆめの又ゆめ」


戦国武将の館U・目次に戻る

トップページに戻る



FC2 キャッシング 無料ホームページ ブログ blog
SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO