◆◆戦国武将の館V ◆前田氏◆明智光秀◆足利氏・・史跡

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日本史探訪10」角川書店 
2006.1

共著(司馬遼太郎、辻邦生、桑田忠親、永井路子他)


表紙「豊国祭図屏風」


本書は信長や秀吉周辺にいた人物(たとえば足利義昭将軍や千利休、前田利家、細川幽斎など)について、人物別に何人かの歴史家を対談形式にして構成された共著になっています。

●本能寺の変(天正10年・1582.6.2)の動機(どうき)・・明智光秀(55才)はなぜ信長(49才)を討ったのか・・


本書で一番興味をひいたのは「明智光秀」でした。信長の忠実な家臣だった人が反逆した直接の原因は何だったのかなー・・


★まずは明智光秀という人物・・・・

1528年、美濃明智村で生まれる。学問に優れ、茶の湯・連歌にも親しむ教養人。剣術などの武道にも秀で、城攻めや鉄砲を使う新しい兵法についても詳しかった。諸国を遍歴しているとき、41才で信長に見いだされた。わずか10年で丹波一国を所領する早い出世を遂げた。光秀の軍事能力や政治力を信長は高く評価していた。近畿の寺社領の管理・大和の諸侯の領土の検地・将軍足利義昭との調停役・馬揃えの奉行役・・など行政、民政部門も任されていた。信長の第一の家臣が柴田勝家・第二が明智光秀・第三が秀吉だった。



【本能寺の変に至るまでの原因】


@足利義昭と光秀の結びつきが、信長との間に溝を作る

光秀は信長の家臣になる前に、義昭に仕えている時期もあった。永禄11年(1568)信長に擁立されて入京し、第15代足利将軍となるが、その後信長は将軍の権力の増長を押さえるために、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を発布し幕府の傀儡化をはかる(1569年)。このため義昭と信長は不和になる。義昭は反発し、朝倉・浅井・武田・上杉・本能寺派に加わり反信長勢力を形成する。義昭と光秀の結びつきが信長は気に入らなかった。

A信長の残虐性に対する恐怖心・嫌悪感・・・・性格の不一致・価値観の相違

光秀は教養があり、文化人で慈愛・恩義・真心などヒューマニズムの精神を大事にした。信長は新しいタイプの人間で合理的。その合理性に光秀は同調しつつ、非人間的な信長の残虐性に反感を抱いていた。
例えば、比叡山焼き討ち(1571年)・朝倉義景や浅井長政を滅ぼした時の残忍な手法(1573年)本願寺との戦いで手柄がなかったという理由で、家臣の佐久間信盛父子の領地を没収
して高野山追放する・荒木村重一族の家臣・女子供まで大量殺戮する(1579年)・長島一揆の数万大量虐殺(1580年)・越前一揆の4万人大量虐殺(1582年)。
光秀は信長の野蛮さ、冷酷さに耐えられなかった。いつか自分もこうされるかもと恐怖心を覚えた。それは光秀ばかりでなく多くの信長の家臣も同じ気持ちだった。

B丹波平定という光秀の武功のかげに、不幸が・・信長のせいで、光秀の母が磔(はりつけ)にされ殺される

天正7年(1579)、光秀の軍勢は波田野氏の居城の八上城・やがみじょうに総攻撃をかけ落城させる。この時、戦闘に先立ち、光秀は、波田野兄弟に投降をすすめ、自分の母を人質に入れて兄弟を信長のもとに送ったところ、信長が兄弟を殺してしまったため、その報い(お詫び)に光秀の母を八上城の松の木に磔にした。

C信長に追いつめられていた光秀・・自分の所領を没収されるかもしれないという危機感(自分の利害と直結)・・本能寺の変の引き金に?!

○光秀居城の坂本城・・近江の麓の城はもともと森可成(よしなり)の城だった。子の森蘭丸が信長に所領の回復を願ったところ「あと3年待て」と言った話が光秀の耳に入ったという。

○信長は光秀に、「出雲と石見は切り取り次第やる(そのかわり丹波・近江は没収)、毛利との戦に負ければすべて没収・・・・」のようなことを宣告したらしい・・光秀は不安になって反旗を翻そうと決意を固める

感想・・・単に信長が残虐なだけでは立ち上がらないと思いました。やはり自分の身にふりかかる利害関係が引き金になったと思います。信長の光秀に対するいじめというのは「所領を没収するぞ・・」という内容のものもあったのですね。

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