展覧会報告 (2005.7〜) トップページに戻る  目次に戻る

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NO17 (2006.9.20)

(らく)美術館・・「光悦(こうえつ)と樂道入(らくどうにゅう)、二つの樂茶碗、二人の交友」 

京都市上京区油小路中立売上る

樂焼きは、当美術館・「樂家」初代長次郎が制作したのが始まりです。長次郎は桃山時代の茶の湯を大成した千利休の創意を受け、樂茶碗を作りました。それ以来400年、樂茶碗の伝統を受け継ぎ、今日に至っています。現在の当主15代・樂吉左衛門は芸大で彫刻を学びイタリアへ2年遊学されたようですが、その樂茶碗の作風は従来のものとは違う趣もあるようです。

美術館は一条戻り橋の東側に位置する閑静な住宅地の一角、樂家・樂吉左衛門の邸宅(写真)の敷地にあります。樂焼の美術館として1978年に設立しました。所蔵品は900点に及びます。



★「光悦と樂道入」展

江戸時代初期の芸術家・本阿弥光悦(永禄元年・1558〜寛永14・1637)と茶碗師・樂道入(1599〜1656)がそれぞれ作った樂茶碗、光悦の手紙など40点が展示されています。

【展示品】
光悦・・黒樂茶碗「雨雲」(重文)、赤樂茶碗「乙御前・おとごぜ」・「毘沙門堂」、飴釉(あめぐすり)樂茶碗「紙屋」、新たに発見された飴薬樂茶碗二碗

樂道入・・黒樂茶碗「稲妻」・赤樂茶碗「禿・かむろ」etc・・


◇本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)

刀剣の鑑定や研磨を家業とする京都の本阿弥家に生まれます。家業にも携わっていましたがやがて、「寛永三筆」に入る書家として頭角をあらわします。元和元年、家康は光悦に、京都市北区鷹峯の地(京都市の北方)を与え移住させます。朝廷と親しくしていた光悦を遠ざける意図があったという説もあります。光悦はその地(後に光悦村と呼ばれる)に、本阿弥一族や親しい町衆、職人と共に暮らし芸術三昧の日々を送ります。光悦は書道の他に漆芸、茶の湯、陶芸も手がけます。


■光悦と樂道入(らくどうにゅう・樂家三代当主)の関係・接点

本阿弥家とこの美術館の敷地に居する樂家とは、大変深い関わりがあったとされています。光悦は樂家二代常慶・三代道入の協力を得て茶碗作りを始めました。樂家に陶土や釉薬掛けを依頼する光悦からの手紙が残っています。

◆まとめ

光悦と樂道入の樂茶碗の作品は、形・色とも作風に共通性があるといわれています。非常に二人は仲が良かったとされています。樂家が陶土を用意し、光悦の作品に釉薬を掛け、大部分が樂家で焼かれました。二人の作品の共通性、似通っているのも納得がいきます


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