紫式部の部屋71         

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★源氏物語・『朱雀院跡』・・朱雀帝(光源氏の異母兄)の御所

京都市中京区壬生花井町・日本写真印刷KK 
 2012.2

■朱雀院跡を記す説明板は、JR二条駅の南、日本写真印刷KKの広大な敷地の一角にあります。朱雀院は、
朱雀大路の西に位置し、三条から四条の間に八町城の平安京内最大の面積を誇る累代の後院(上皇の御所)であった。この朱雀院は、元々は嵯峨天皇の造営による。嵯峨天皇后の檀林皇后(橘嘉智子・たちばなのかちこ)も御所として用いた。その後、皇子の仁明天皇が周辺を取り込んで拡充した。

■後院としての本格的な使用は、9世紀後半の宇多天皇の時であり、以降、醍醐天皇・朱雀天皇の後院ともなった。村上天皇の御代・天歴4年(950)に焼失し再建されるが、恒常的な使用は無くなる。建物は上皇の寝殿を中心とする一群と、皇后の柏梁殿(はくりょうでん)を中心とする一群に分かれ、隼神社、石神明神が設けられ、鎮守神の役割を担っていた。












●平安京・朱雀門の西南に位置する朱雀院(紫の部分が朱雀院・・かなり広大であったことがうかがえる)。
当地での発掘調査では、地中で柱を支える礎板(すばん・・柱底を支える板)を持つ堀立柱(ほりたてはしら)建物跡が検出され、東西7間の母屋に、北・南に庇(ひさし)を持つ建物があったとされている。

●出土した表と裏の板・・「朱雀院灰日記」と記された題箋(だいせん・・巻物の軸先)・・(財)京都市埋蔵文化財研究所提供














■『源氏物語』とのつながり

桐壺帝の父である一院と、桐壺帝の子である朱雀帝(光源氏の異母兄)は朱雀院を御所としている。朱雀院では朱雀帝や光源氏の祖父(一院)の50歳の祝典で「紅葉賀」が華やかに催されている。

★イメージ・・朱雀院(朱雀帝)「五十賀の試楽」・・下京区「風俗博物館」より

平均寿命が40才だった平安時代。40才を祝う祝賀を四十賀、50才を祝う祝賀を五十賀といい、10年ごとに儀式が行われ、年齢に合わせた祝いの品が用意されました。源氏47才の12月に、朱雀院の「五十賀の試楽」が源氏の計画によって、華やかに執り行われました。


●万歳楽(まんざいらく)・・舞いの童は、鬚黒右大臣の四郎君、夕霧大将のの三郎君、蛍兵部卿宮の君二人

皇帝の繁栄を寿(ほとほ)ぐ舞い、4人で舞う















●太平楽・・唐楽(とうがく)の代表曲。4人の武舞。

漢の高祖と、楚の項羽が宴を催したとき、項羽の臣下が高祖をねらい刀の舞いを舞ったとき、高祖の臣下が危険を察知して共に舞い、暗殺を防いだという故事に基づく。矛(ほこ)を手にしている。















●楽人・・白襲(しらがさね)の衣装をまとう















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