紫式部の部屋55           

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★菟道稚郎子(うじのわきいらつこ 生年不詳〜313)

応神天皇皇子(仁徳天皇の弟・・)の御墓

歴史の舞台から降りた悲運の皇子・・思わず涙が・・

『源氏物語』宇治十帖・八宮(光源氏の弟)のモデルとされている

2011.6  京都府宇治市菟道・宇治橋下流


墓は京阪宇治駅より北へ徒歩5分(京阪線に沿って歩くと近道)。宇治神社・宇治上神社の祭神として祀られている菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)には、応神天皇の皇子で異母兄と同母兄(後の仁徳天皇)が二人いた。才智に長けた菟道稚郎子を父親の応神天皇は高くかっていた。応神天皇は亡くなる前の年の応神40年(309)、二人の上の息子をさておき、菟道稚郎子を太子に立てた。

翌年の310年、応神天皇が崩御する。その後、兄(後の仁徳天皇)と菟道稚郎子は互いに皇位につかず、菟道稚郎子は3年間、宇治の離宮(現・宇治神社の地)で隠棲(いんせい)
していた。空位のまま3年の月日が経過し、世の中が乱れてきた上に、兄の皇位への決心が固いことを知った菟道稚郎子は自害して、兄に皇位を譲る。仁徳天皇は宇治の地に来て、弟の死を嘆いたという。

この墓は浮舟の社と呼ばれていた円丘を宮内省が、明治22年(1889)前方後円墳に成形して菟道稚郎子の墓とした。墓の場所については諸説がある。

●大回りで、宇治橋の下流の土手を行く(左2枚) ●後ろを振り向き、宇治橋を望む(右の写真)













●土手、右手方向に墓が見えてくる。手前には茶畑が。 ●さらに下流に進む












●土手を右手に降りて、墓に近づくと鳥の鳴き声がけたたましく響く ●墓正面・左手方向より撮影













●墓正面  ●宮内庁の看板に「宇治墓」の記載 ●墓正面・右手方向より撮影












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