紫式部の部屋38

           

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★源融(みなもとのとおる・・嵯峨天皇皇子・光源氏のモデル)

・・六條河原院跡(源氏物語・六條院のモデル

本覚寺
(ほんがくじ) 


2010.7 京都市下京区富小路五条下る本塩竃
(ほんしおがま)



■平安時代の源融の河原院跡に建てられた本覚寺

浄土宗の寺。鎌倉時代初期、源実朝の後室・坊門のぶこが貞応元年(1222)に、西八条の大通院内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺14を有する本山となった。その後、後柏原天皇勅願寺となったが、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。



























嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルとされた源融(822〜895)の「河原院塩竃の第(だい)」(河原院)のあったところで、『源氏物語』・光源氏の六條院(光源氏35才時代)のモデルとなった地である。

源融は風雅を好み、別荘をたくさん造って華やかな生活をしていた。嵯峨清涼寺の前身である嵯峨野山荘「棲霞観(せいかかん)、宇治平等院の前身である宇治の別荘、そしてこの六條河原院・・。

源融は河原院に鴨川の水を引き入れて池を造り、宮城県・塩竃の裏の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。この辺りの住所が本塩竈町という地名で残されている。

もし、風雅を極めた源融や河原院が実存しなければ、不朽の名作『源氏物語』は誕生しなかったかもしれない。

写真;六條院の光源氏、船遊びに興じる女房など(下京区風俗博物館)

















●本覚寺に近い「渉成園(しょうせいえん・・東本願寺別邸)」・・ここも六條河原院のエリアだった。河原院は2000坪を誇る巨大な敷地であった。この池で詩歌管弦が繰り広げられた。源融の供養塔の石塔が、池に浮かぶ。














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