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紫式部の部屋6.

雲林院(うりんいん)京都市北区雲林町 
(2006.10月撮影・・2007.3.8UP)

★紫野・・紫式部の名前もこの地名による

★雲林院と紫式部・・生誕との関わり

★『源氏物語』と雲林院との関わり 

【雲林院】
船岡山の東麓、紫野と呼ばれる一帯にある寺。臨済宗大徳寺の塔頭。現在は狭い敷地にひっそりたたずんでいるが、もとは大徳寺辺りに300m四方ともいわれる広大な敷地があり池を配していたとされる。淳和天皇(786〜840、桓武天皇の第三皇子・嵯峨天皇の弟)の離宮「紫野院」がのちに「雲林亭」となり、仁明天皇が崩御した後、仁明天皇の皇子・常康親王に伝領された。貞観11年(869)、常康親王が出家する折りに、千手観音を祀って「雲林院」という寺にした。

平安時代、その規模から「雲林院」は誰もが知る有名な寺でした。『古今和歌集』『源氏物語』『山槐記』『今昔物語』『伊勢物語』『大鏡』『平家物語』など平安時代の書物に必ずといって登場するほど平安貴族に親しまれていたお寺といえます。

鎌倉時代までは、隆盛を極めましたが、鎌倉時代が終わた翌年の南朝時代の初め・元弘4年(1334)に大徳寺が創建されたときに雲林院は塔頭となり規模が縮小されました。応仁の乱で焼失し、宝永4年(1707)に建て替えられ現在に至っています。

●観音堂・・本尊の十一面千手観音菩薩を祀る

●十三重石塔と、深紅のケイトウの花  ●紫雲弁財天

















★雲林院と紫式部・・生誕との関わり・・早世した母を知らない式部。晩年をここで過ごしたという説も・・。


大徳寺の前身であった地が、平安時代の雲林院の敷地ですが、大徳寺塔頭の真珠庵に「紫式部産湯の井戸」がありこの辺りで紫式部は生まれ育ったとされています。紫式部の母(藤原為信の娘・藤原為時の妻)は式部の弟を出産した時、難産で命を落とした。式部の母の安産をこの雲林寺で祈祷していた可能性もあるという。また紫式部は晩年をここで過ごしたという一説もある。

★『源氏物語』には、母のいない登場人物が多い・・母のいない寂しさが創作意欲に?!・・ヒロイン光源氏と式部は同じ境遇

式部の母は、式部が2、3才の頃亡くなった。物心がつく頃には既に母はいない。経済的には困窮していなかったが母を知らない式部にとって、いつも心にすきま風がビュービュー吹き込んでいたことが想像できる。『源氏物語』の主人公光源氏は3才にして母、桐壺更衣を失う・・これは、式部と同じ境遇である。夕霧・紫の上・大君・中の君・・みな母がいないという設定になっている。
「母がいない、母を知らない」・・という寂しさがいつも式部の底流にあったと思う。

★『源氏物語』と雲林院との関わり

「賢木・さかきの巻」で、雲林院が登場します。光源氏は、恋慕う藤壺の中宮から冷たくされ、いじけて雲林院に籠もります。しかしこの時、天台宗60巻(平安時代は天台宗の寺院だった)を読みすすめます。亡き母・桐壺の更衣の兄もこの寺に籠もり修行をします。源氏と朧月夜の禁断の恋の場もこの寺の設定になっているようです。式部は日頃からこの雲林寺に親しんでいたことが伺えます。

                    

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