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聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡

聚楽城北限の警護にあたる
 

京都市上京区黒門通一条上る西側・弾正町  2009.5



■「京都歴史地理同考会」(NPO法人)がNHK大河ドラマ「天地人」を記念し、2009年4月26日に「聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡碑」(村田眞一氏寄贈)を設置しました。

●秀吉の聚楽城時代(天正14年・1586〜天正19年・1591)

秀吉の命により、全国の大名が聚楽城のそばに結集し屋敷を営み、「武家国家の首都」の機能を持ち合わせました。上杉景勝の屋敷は天正16年(1588)に建てられました。

●埋蔵文化財のプロ・森島康雄氏作図の「聚楽第と城下町」(写真)によると、上杉の屋敷があった弾正町は、聚楽城の北限に位置していたとされます。安倍晴明神社の南にあたります。室町時代は、細川勝久の屋敷がありましたが、応仁元年(1467)細川勝元に属していたことから、まっさきに戦乱に巻き込まれました。

●弾正町は江戸時代初期から続く町名である。名の由来は、上杉景勝の官位が弾正大弼(だんじょうおおひつ)だったことによります。















●町屋の風情が残る村田眞一氏(寄贈)の敷地に碑が建てられました。















●「聚楽城 武家地・・」

聚楽邸としないのは、鉄砲の発射設備や城郭が張り巡らされ、城としての機能が備わっていたことによります。 この上杉屋敷に家臣の直江兼続も頻繁に出入りしていたようです。

















聚楽城 武家地 上杉景勝、直江兼続屋敷跡推定地碑

京都市上京区葭屋(あしや)町椹木(さわらぎ)町下る  2009.5



■「京都歴史地理同考会」・NPO法人がNHK大河ドラマ「天地人」を記念し、2009年5月9日に「聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡推定地碑・直江兼続屋敷跡推定地碑」(近藤光成氏寄贈)を設置しました。

●場所は、平安京・春宮坊(とうぐうぼう)があった、町屋の風情が残る住宅街。弾正町から1キロメートル南にあります。東側には大きな堀川通りもありますが、その喧騒を感じさせない、コインパーキングの一角に碑があります。















『輝元公上洛日記』によると、天正16年(1588)にこの辺りに屋敷があったと記されています。この辺りには毛利輝元屋敷や、宇喜多秀家屋敷もあったそうです。地名として、森中町(毛利)・浮田町(宇喜多)・長尾町(上杉)・直家町(直江)・・が残っていることから、直江兼続屋敷と、もうひとつの上杉景勝屋敷があったと推定されています。

●説明板(副碑銘)によると、「上杉年譜」の記述に、天正17年(1589)、上洛した出羽国(山形県)の大名・大宝寺千勝丸が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあります。

●直江兼続は、秀吉から好かれていて、上杉景勝同様、豊臣の姓を賜り、優遇されていた。兼続の人柄の良さや、秀吉の家臣・石田三成の友人であったことも起因していたかもしれない。
















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