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史跡・ゆかりの祭り

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★大徳寺塔頭・黄梅院・・織田信長・豊臣秀吉ゆかり

京都市北区紫野大徳寺   2009.11

平素は非公開の寺である。永禄5年(1562)、織田信長(28歳)が入洛した時に、父・織田信秀の追善菩提のため、黄梅庵を建てた。(信長の父は1551年、信長が17歳の時に亡くなった。)

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により信長が急逝すると、秀吉は同年10月12日、養子である信長の四男秀勝を担いで信長の100日忌を行った。3日後の10月15日に信長の葬儀を大徳寺で執り行った。警護の武士1万人、3000人の壮大な葬列が数キロに渡り続いたという。
その後、秀吉によって黄梅庵の改修が進められ、天正14年5月、本堂と唐門が改装された。秀吉はこれとは別に天正11年、大徳寺内に「総見院」という織田信長の墓所も建てた。

当寺は織田家の他に毛利家、小早川家、蒲生家の菩提所ともなっている。
















●表門・・小早川隆景の寄進による。なだらかな兜型の門で天正17年(1589)に完成。この年「黄梅庵」から「黄梅院」と改名された。












●織田信秀、毛利元就、小早川隆景、蒲生氏郷の墓地碑が表門を入った右手に並ぶ















●唐門(重文)・・秀吉によって天正14(1586)年に建てられた。近くには立ち寄れません。

●庫裏(重文)・・天正17(1589)年4月、小早川隆景の寄進により完成。禅宗寺院の庫裏としては最古のもの。屋根は切妻造板葺、内部にかまどや、料理を置く典座の部屋、お金を計算する納所の部屋などがある。













●鐘楼・・鐘は1592年、加藤清正によって寄進された。現存の鐘楼は益田玄播守によって建立された。平成17年に修理された

●苔の庭が美しい・・撮影できるのはここまでです。












☆秀吉ゆかりの瓢箪池のある直中庭(じきちゅうてい)や、枯山水の作仏庭(さぶつてい)、書院・自休軒、本堂、茶亭など大部分が撮影禁止。

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