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◆石田三成の墓所・・大徳寺塔頭「三玄院」

◆森忠政(森蘭丸の弟)の墓所

京都市北区紫野大徳寺町  2006.2

「三玄院」・・天正17年(1589)、石田三成・浅野幸長・森忠政(森蘭丸の弟)が春屋宗園を開祖として創建した寺。この墓には石田三成と森忠政(森蘭丸の弟)がまつられています。「石田三成公御墓所」の碑が門前にあります。門は伏見の三成屋敷から移築した門です。三成は慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いで最期まで家康軍と戦い負けた。同年10月1日、市中ひきまわしされ、六条河原で亡くなった。切腹せず最期まで果敢に生きた。


信長小姓時代、素行が悪かったため運良く長生きした森忠政(森蘭丸の弟・1570〜1634 )

★森忠政には5人の兄がいた。兄の森蘭丸・力丸・坊丸は天正10年(1582)の本能寺の変で討死している。森蘭丸の兄、可隆・長可はいずれも戦死している。長可は1584年、小牧・長久手の戦いで亡くなった。
1番下の仙丸(森忠政の幼名)も本能寺があった年(1582)の春から兄たちと同様、小姓をつとめていたが、同年3月、先輩小姓(梁田河内守)とけんかして信長公の御前で、先輩小姓の頭を扇子でポカポカ叩いたという。それを見た信長は仙丸を美濃の家に帰すことにしたという。というわけで仙丸の命は助かることになる。秀吉時代は15才の時、羽柴右近として働いた。朝鮮出兵の時は九州で奉行役を勤めた。

しかし、慶長5年(1600)、忠政は家康から松代にある川中島・海津城をもらい、家康方について三成に対抗した。名前も羽柴から森に戻した。兄の長可が持っていた川中島4郡は長可の戦死とともに、豊臣に召し上げられた。本来だと弟の忠政が川中島を受け継ぐはずだが、幼少という理由で召し上げられたことを忠政は恨んでいた。慶長8年(1603)、家康から美作国(岡山)18万5千石を与えられる。津山城を築城し、城主となる。寛永11年(1634)、京都で桃を食べて食中毒になり7月7日京都で亡くなる。京都市北区にある船岡山の麓で火葬され、この大徳寺・三玄院に葬られた。享年64才で他の兄たち5人に比べ、長生きした。














●三玄院入り口付近。非公開 
三玄院の前には仏殿(写真)があります 
三玄院の前のようす、右手は木に隠れた法堂













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