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読書の記録

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豊臣秀長』・・ある補佐役の生涯  2010.9

単行本(上・中)・・PHP出版  


著者・・・堺屋太一
1935年、大阪市に生まれる。本名、池口小太郎。東大経済学部卒業と共に、通産省に入省。日本万国博覧会を企画、開催。経済企画庁長官などにも携わった。著書は『団塊の世代』『巨いなる企て』『千日の変革』など多数。時代物や経済に関する物などバラエティーに富んでいる。



豊臣秀長(天文9・1540〜天正19・1591)

天下人、豊臣秀吉の弟で、同父説、異父説があるが、血のつながりがある。元亀元年(1570)4月、対朝倉戦で浅井長政寝返りの報で、信長軍撤退の折、金ヶ崎城の殿軍(しんがり)を務めた。最も危険とされるしんがりの役を兄が申し出て、秀長がバックアップして戦功を支えた。百姓の出で出世するには、命がけで目立った功績を・・と願う兄の強力な助っ人が秀長であった。

秀長は幾度も危険な戦を経験している。連戦で疲弊していても兵力を立て直し、兵糧・武器の調達を行い軍力の維持も務めた。本能寺の変後の中国大返し、天王山の合戦、賤ヶ岳合戦など重要な局面で秀長は兄を支えて活躍している。秀長は兄、秀吉と共に戦を100戦以上したにも関わらず戦死していない。強運の持ち主である。

秀長は、秀吉の補佐役として、領民や武士間の紛争を誠意を持って双方が納得いくように配慮したという。領民の間で一揆が起きなかったのは秀長の功績によるところが大きい。

天正5年(1577)8月、上杉謙信軍が加賀に攻め寄った時、出陣していた秀吉が柴田勝家に逆らって、撤退し長浜に戻ってきた事件があった。秀吉は軍規に違反した罪で信長から謹慎を命ぜられた。このとき数か月で秀吉の謹慎が解かれたのは秀長の尽力によるという。ともすると短絡的な行動に出る秀吉をカバーするのも秀長の仕事であった。

秀長は教養があり、人心をまとめるのに才長けていた。性格が温厚、沈着冷静、人望も厚かったという。いつも出しゃばらず、兄を第一に立てる奥ゆかしさがある。お金の使い方が質素・堅実で羽柴家時代も豊臣家時代も財産管理もそつなく行った。豊臣政権下、秀長は、紀伊・四国・九州を平定し秀吉の天下を支えた。51才で大和郡山城主として亡くなる。秀長が生きていた頃は、穏やかな豊臣政権も彼の死後、残虐性を増していく。

■感想■・・豊臣秀長のドラマ化、熱望・・・

【墨俣の一夜城をはじめ、有名な合戦シーンが次々に登場し、一気に読み進めることができる。戦国時代の名武将・名場面のオンパレードで実に楽しい。】

【秀長の秀吉への絶大なる忠誠心と兄弟の結束の背景】

@共通の認識・・百姓の出自であったことで兄弟が互いにその貧しさを知っている。頑張って功績をあげないとすぐ干されるという現実を互いに認識している。

A兄の出世志向と、その努力・実績を弟が目の当たりに見ている。

Bこの時代にしては、男兄弟が、兄と弟だけで少ない。4人兄弟、5人兄弟なら軍功を奪い合い、騒動になった可能性もある。幸か不幸か、秀吉に跡取りができない、男兄弟が少ない、有能な親族、頼れる親族がいない・・ということもこの兄弟の結束を強固なものにしたと思う。秀長あっての秀吉、秀長あっての豊臣だったと思う。

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