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史跡・ゆかりの祭り

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★寂光寺・・織田信長・本因坊ゆかりの寺

京都市左京区仁王門通東大路西入る北門前町  2010.2.3

■妙泉山顕本(みょうせんざん・けんぽん)法華宗の寺。天正6年(1578)、左京区岩倉妙満寺(日蓮宗)26世の日淵上人により創建される。はじめ久遠院と称し、上京の室町出水にあったが、秀吉の聚楽第造営にともない中京の寺町二条に移ったが宝永の大火にみまわれ、宝永5年(1708)左京区の現在地に移る。

■碁道・本因坊発祥の地


当寺2世の日海(1559〜1623)は、幼少名を加納与三郎と称し8才で仏門に入った。7つあった塔頭のひとつ・本因坊で暮らしていた。日海は日蓮宗の老尚、仙也から碁の手ほどきを受ける・・・

■織田信長との関連・・本能寺の変との関わり

日海は1578年、信長と何度も対局したが、いつも勝ちすすみ敵無しとして、信長から「名人」の名を贈られる。日海は、1582年6月1日の本能寺の変の前夜、信長の御前で日蓮宗の利玄と対局していた。対局中、同じ形を繰り返す手とされる劫(こう)が3回行われ(三劫・・さんこう)、勝敗が決まらなく不吉の前兆があったとされる。翌日、本能寺の変が勃発し、日海・利玄の驚きは想像に絶する。















■日海は信長亡き後、秀吉・家康に碁を教え、仕えた。家康に認められ、本因坊算砂という名前になった。本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなった。当寺には1世本因坊算砂(さんさ)、2世算悦(さんえつ)、3世道悦(どうえつ)の墓がある。寺宝に本因坊算砂の画像や、近衛関白より拝領の唐桑の碁盤がある。

●第一世・本因坊算砂の報恩塔 ●本堂















■本因坊は4世・道策の時、江戸に移った。

●本堂と鐘楼・・境内は広々としている ●山門前の月の句と、干支の虎
















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