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史跡・ゆかりの祭り

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★秀頼の子・国松、秀吉側室・松の丸殿ゆかり

■誓願寺   京都市中京区新京極通三条下る  2010.1

浄土宗西山深草派の総本山。誓願寺の創建は古く、飛鳥時代の天智6年(667)、天智天皇の勅願で大和国に創られた。平安遷都に伴い山城国・深草に移り、鎌倉時代に上京区に移った。清少納言、和泉式部、秀吉の側室が帰依した女人の寺ともされている。天正19年(1591)秀吉の寺町整備により現在地の新京極に至る。

現在は小さな堂宇となっているが、かつては寺町六角通りから三条通りにかけ6500坪を有する広大な敷地を有していた。洛中洛外図屏風にもその広さが描かれている。江戸時代の寛永年間の書物によると、この辺りは芝居小屋、見せ物小屋が建ち並び歓楽街であったという。「誓願寺さんに行こう」は「遊びに行こう」という意味だったそうだ。歓楽街のど真ん中に寺は位置していた。ところが、明治維新になり、繁華街が推進され寺は4800坪も没収された。現在では誓願寺の塔頭も店と店の間に挟まれた形で残っている。
















本堂

禁門の変
を含め過去10回に及び災禍にあっている。昭和39年、鉄筋コンクリートの本堂が建てられた。本尊は阿弥陀如来。来年の平成23年は法然上人の800忌を迎える。
















●芸能との関わり・・世阿弥が作った謡曲「誓願寺」で当寺の縁起や霊験が、和泉式部や一遍上人の役者によって紹介される。また当住職だった策伝上人(1554〜1642)が落語の本を書き、落語を発祥させたことによる。舞踊など芸道を志す人たちの祈願所となっている


●本堂の両脇に奉納された、芸道上達祈願の扇
















扇塚・・扇を供養する塚。塚の地蔵がかわいらしい















秀吉孫・国松、秀吉側室・松の丸殿の墓所があった所

誓願寺から徒歩2分ほど西北に寄った寺町通りのアーケードの一角に、かつて秀吉の側室だった松の丸殿(京極竜子)と、秀頼の子・国松のお墓があったとされる(寺町通り六角上る、ミスド・桜湯の辺り)。

松の丸殿(京極竜子)は、父を京極高吉、母を浅井久政の娘とする、浅井長政は叔父にあたる。浅井三姉妹の淀殿・初・江は従姉妹となる。兄は京極高次。竜子(たつこ)は武田元明に嫁ぎ二男一女をもうける。夫は本能寺の変後、明智光秀に荷担して討たれ、後に秀吉の側室となった。秀吉が亡くなったあと、兄の居城・大津城に身を寄せ、高台院(ねね)や従姉妹の淀殿との親交は続いていたという。

1615年大坂夏の陣で、竜子は淀殿の侍女・菊を助けだした。秀頼の息子・国松は伏見で捕まり六条河原で処刑、国松の遺体は竜子に引き取られ、誓願寺のこの地に埋葬された。そして1634年に竜子も亡くなり、国松の墓のそばに葬られた。竜子にとって淀殿・国松は血のつながりがあるので、その悲しみは計り知れないものがある。

明治政府の繁華街政策で誓願寺の土地が没収され、この二人の墓が取り残された。人々は哀れに思い、秀吉の眠る豊国(ほうこく)廟に墓を移したという。



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