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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏

◆武田氏史跡H・・信玄六女・上杉景勝正室、菊姫仮埋葬地 

妙心寺・隣華院
(りんげいん) 京都市右京区花園妙心寺町 2009.3

●妙心寺(写真;北総門)

臨済宗妙心寺の本山(禅宗妙心寺派の総本山)。建武4年(1337)、花園法皇が自らの離宮を禅刹に改め、関山慧玄を開山として迎えたのが始まり。その後、足利義満の圧迫や応仁の乱などで一時中絶するが、細川勝元の支援を受けて復興。次々と名僧を輩出したため、武士層が帰依し大いに隆盛した。広大な山内に46の塔頭寺院があり、圧巻です。



●妙心寺塔頭・隣華院(非公開)・・北総門から二つ目の寺

隣華院は賤ヶ岳七本槍の脇坂安治(わきざかやすはる)家の墓所として、豊臣秀吉の信任が厚かった南化玄興を開山として創建されました。


■武田との関わり

開山の南化玄興和尚は、武田信玄の菩提寺である塩山市・恵林寺の快川和尚の弟子でした。(快川和尚は武田勝頼や武田氏が信長によって滅ぼされた翌月の天正10年4月3日、恵林寺の三門で120余名の高僧とともに炎に包まれ亡くなりました。武田の孫子の旗を書いたり、信玄の葬儀と関わった人物です。)



■菊姫ゆかりの寺(写真;表門・正面玄関)

武田信玄と油川夫人との間に生まれた六女・菊姫(1558〜1604)の仮埋葬地となっていて、五輪塔の墓所があります。開山・南化玄興と師匠だった快川和尚と武田氏との縁で、ここが仮埋葬の地となったと思います。













菊姫の生涯(写真;方丈・庫裏・塀)

天正6(1578年)、上杉謙信が亡くなったあと、越後では謙信の養子だった上杉景勝と上杉影虎との間に家督を巡る「御館(おたて)の乱」が勃発しました。当初、武田勝頼は北条氏側の影虎の援軍として出陣しましたが上杉景勝の家臣・上杉兼続らの働きかけで、上杉景勝と和睦することにしました。このときに武田勝頼は上杉と武田の同盟の証に、腹違いの妹の菊姫を上杉景勝の正室に差し出すことを約束しました。翌年の1579年10月、菊姫(21才)は上杉景勝の正室となり、春日山城で甲州夫人としてしばらくの間暮らしました。

文禄4年(1595)、上杉藩は越後から米沢へ転封となりました。この時、菊姫(37才)は越後を離れ、京都・伏見の上杉邸で暮らすようになりました。豊臣秀吉の監視下におかれ、人質としての生活を送りました。47才の時に、病没し仮埋葬したのがこのお寺でした。菊姫の菩提寺は、山形県米沢市・林泉寺にあります。

★慣れ親しんだ、甲斐の国を離れ越後での人質生活、京都での人質生活を送り、故郷の甲斐や嫁ぎ先の越後からも離れて、戻ることもできなかった生活は決して幸福なものでは無かったと思います。












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