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読書の記録

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石田三成桑田忠親 講談社文庫 2006.6

桑田忠親・・明治35・1902年〜昭和62・1987年。国学院大学国文学科卒業。東京大学史料編纂官補、国学院大学名誉教授、文学博士。NHK大河ドラマの時代考証や監修も担当した。著書に『千利休』(中公新書)、『明智光秀』『斎藤道三』『太閤豊臣秀吉』(講談社文庫)、他。

●家康の恩人は、敵方の石田三成だった!・・三成が関ヶ原の戦いに挑んで負けてくれたおかげで天下がとれた

●筆者は徳川時代に流布された三成の悪いイメージをことごとく否定しています

★石田三成(1560〜1600)

豊臣秀吉に仕えた安土桃山時代の大名です。秀吉亡き後、豊臣政権下での五奉行のひとりとなります。関ヶ原の合戦で、家康に戦いを挑み、破れて散った秀吉にもっとも忠実な家臣でした。NHK『その時歴史は・・』で『家康が最も恐れた男・石田三成』として番組でもとりあげられたほど、家康には手強い相手だったようです。


著書より・・・
三成は1574年・15才の時、鷹狩りの帰りに近江の観音寺でお茶を所望した秀吉(当時38才)に、気のきいた抹茶の接待をして秀吉に気に入られたという逸話が残っている。才知と機転がきく三成は、戦いの舞台ではなく、軍資金の調達・兵馬弾薬食糧の運搬・輸送計画など後方支援をしていた。また、台風で淀川が決壊したとき、米倉の米俵を土嚢のかわりにして大坂城を守ったり(その米は雨があがった後、土嚢に置き換えられ米は作業に携わった領民に配られ喜ばれたという)、太閤検地を手がけたり、天正15年の九州陣で博多の町が荒廃したとき、街路を整え商売を活性化させるなど、奉行役としても名高い

三成と家康との確執
秀吉の死後、家康は秀吉の遺言・覚書きの誓書を次々に破り、水を得た魚の如く勢力を拡大していった

家康の恩人は、三方ヶ原の戦いで自分を敗退させた武田信玄と、関ヶ原の戦いに挑んでくれて天下をとらせてくれた三成だったという。家康は真っ向から豊臣と対決すると、逆賊になってしまうので三成の方から戦いを挑んでくれる誘導作戦をあの手この手でしたという。家康は会津遠征で、各大名に協力を呼びかけ勢力を増し、三成を刺激したという。その作戦に三成はまんまとひっかかってしまった。

★作者の家康評

『家康は他人の弱みにつけこんで私恩を売り、これを味方とするやり方は家康の終生もちいた常套手段だった。私恩を売り、大名家中を分裂させる。芸が細かい・・』と文中で述べています。

★作者の三成評

『暴力と謀略にあけくれる時代に三成は天下はとれない。家康と違って三成は裏工作できなかった、・・三成は朴念仁(ぼくねんじん)だった』と述べています。さらに、『己を知る人のために(秀吉)のために、実際に一命を捨てて、これにむくいた例はそれほど多くない・・』『性格がもっと明朗で、人物の巾が大きければさすがの家康も天下をとれなかったであろう・・秀吉恩顧の武将派に嫌われたことが三成にとって致命的になった』と記述しています。

●感想・・実直でまじめストレートで純粋だった三成

家康の、豊臣の家臣を大勢自分の方に引き込む根回しの巧みさに驚きました。人によっては家康を狡猾、タヌキおやじと呼ぶ人もいますが、天下をとるためにはあらゆる手段で人心を自分にひきつける必要があったのでしょう。家康は実戦で負けたり、息子を謀反人として疑われて処分したり、いばらの道も歩みそれなりに辛酸をなめてきていると思います。苦労した分人間の巾も広いのでしょう。

三成は、秀吉恩顧の家臣で豊臣を裏切った福島正則・加藤清正・浅野幸長・黒田官兵衛・・山内一豊らに比して、実直でまじめで忠義を貫き通した家臣だったと思います。生き残るしたたかさに欠けていますが、人間としては純粋で爽やかで、共感できます。徳川の時代になってから三成は、陰湿な人物として語られるようになりますが、筆者は著書の中で悪い噂の一つずつを丁寧に否定していきます。冷静に分析しつつ決して三成を悪く書かないのは、筆者が三成のまっすぐな心に共鳴しているからだと思いました。

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